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【百人一首の秘密】

面倒くさい場合は読み飛ばしてもいいです。意外と知られざる百人一首の真相です。

【前書き】

最近は新年になるとテレビなどでカルタ名人戦の中継があって、鋭い瞬発力を要求される激しいスポーツの一種であるとの印象を与える。昔公家が優雅にやっていた歌合わせなどとは全く次元が違っている。百人一首には各地に色々なものがあるが、代表的なものは「小倉百人一首」である。これは今から約750年前鎌倉時代初期に作られた和歌集で有名な和歌を百人、一首づつ選んだ歌集である。

古今東西を見ても「百人一首」以外にこれほど長くかつ国民に親しまれた詩歌集はない。百科事典を引くと「小倉百人一首」の項目には次のように載っている。
  『鎌倉前期に成立した秀歌撰,最初の,もっとも親しまれてきた〈百人一首〉。藤原定家撰。
   ただし後人が補訂したとの説もある。《明月記》に1,235年,宇都宮頼綱(蓮生)の依頼により,障子に貼る色紙のために,天智天皇より家隆・雅経に及ぶ古来の歌人の歌各1首を選定し,染筆した旨の記事があり,百人一首の成立を語るものとみられる。ただし,《小倉百人一首》と骨格を同じくしつつもいくつかの相違をもつ《百人秀歌》という別本があり,両者の関係を含め,成立には諸説がある。作者は,天智,持統,人丸(人麻呂)に始まり,定家,家隆,後鳥羽天皇,順徳天皇に至る,古代から鎌倉時代初期までの100人。近世以後は<歌がるた〉として親しまれている。』

【時代的背景】

百人一首でのキーマンは後鳥羽院と藤原定家である。後鳥羽院は1、180年に高倉天皇の第4子として生まれた。当時は「平家にあらずんば人にあらず」といわれた平家全盛期であった。後鳥羽院が生まれた翌年には頼朝と義仲の挙兵により平家が衰滅に向かい、武士の権力が強大化していく過程のいわばエポックメイキングな時代であった。

そんな中で後白河法皇の後を受けて1、184年後鳥羽天皇として即位した。彼は歴代の天皇の中でも優れた才能を持ったスーパーマンで、荘園の財力をバックに学問や音楽だけではなく流鏑馬・水泳蹴鞠・狩猟などの運動面でも人に劣ることはなかった。政治面でも京都朝廷の実権を掌握し北面の武士のほかに西面の武士を新設して直属軍の強化を図った。

わけても日本文化史上、新古今時代と呼ばれる和歌の黄金時代を築いた。公卿たちにしばしば百首歌を命じ、自らも2、364首の歌をよんだといわれている。その中で当時中流貴族であった藤原定家を抜擢し、1,205年「新古今和歌集」を編纂させた。従って藤原定家にとっては歌壇登場での恩人であったが、最後は歌論上の衝突で歌人として活動を止められてしまった。時代は日に日に新興武士階級の政治的・経済的勢力が強まっていったが、これは後鳥羽院には耐え難い事態であった。鎌倉幕府の内紛に乗じ1、221年後鳥羽院はその子順徳院と謀って京都朝廷の勢力挽回するため「承久の乱」を起こした。しかし武士階級の結束力堅く結局後鳥羽院は隠岐島に、順徳院は佐渡島に配流されそこでそれぞれ憤死した。

その当時既に藤原定家は鎌倉幕府側にいたが、男舅宇都宮頼綱(蓮生)の要請により自分の「小倉山荘」で後鳥羽院が憤死する数年前の1,235年「小倉百人一首」を撰集した。

藤原定家はどんな思いで「百人一首」を撰集したのだろうか?後鳥羽院の引き立てで歌壇の大御所としての地位を確立したが、立場の違いから袂を分かつ結果となりその上恩人が配流の身となっていたことから、後鳥羽院については心を痛めていたに相違ない。彼の日記である「明月記」にはそのあたりの心の揺れが窺われる。

【百人一首の疑問点】

昭和26年宮内庁書陵部で「百人秀歌」という藤原定家の書いた古書が発見された。それには101首の和歌が収録されほとんど「百人一首」と内容が同一であったことから藤原定家の撰集であることがほぼ確定した。

「百人一首」は天智天皇・持統天皇から始まり後鳥羽院・順徳院に至る100首の和歌で構成されているが、よく見ると当時の代表的歌人である藤原定家が選んだにしては次に述べるような疑問点があって、藤原定家の撰集ではないのではないかという疑いがあった。

1)時代順には必ずしもなっていない。
 2)額田王・山上憶良・大伴旅人など代表的な歌人がもれている。
3)撰集したものが必ずしも代表的な歌ではない。
 4)似たような語句の歌が多い。例えば、風14首・月11首・物思う10首などであり、1枚札といわれるものは6首のみである。
 5)山吹・藤・萩など当時の美しいとされていた花がもれている。
などである。 従って当代の歌壇の実力者が撰集した基準や意図が何であったかという疑問が発生する。結論をいえば、藤原定家はある意図を表現するために古今の歌人100人100首を選んでこれを作り上げたのである。

【百人一首の内容的特徴】

百人一首にはいくつかの特徴があるが、それを概括してみよう。

 1)相対性

  a.春――― 梅(1首)・桜(6首)

   秋――― 菊(1首)・紅葉(6首)

  b.春――― 紀貫之(梅)・小野小町(桜)

  秋――― 平凡河内躬恒(菊)・在原業平(紅葉)それぞれ「古今集」「六歌仙」の代表的人物    

c.1、2番首―――天智天皇・持統天皇(大化改新の成功者)

  d.99、100番首―――後鳥羽院・順徳院(承久の乱の失脚者)

 2)主題連鎖

  月(11首)―――月の出〜月の入り

  桜( 6首)―――咲き始め〜散り果て

  風(14首)―――山おろし〜凪

3)親子18組・対の歌人8組など100首の半数を占める。

 4)文字鎖・折句・掛詞・縁語・本歌取りなどの手法の駆使

などがあげられる。これらの特徴をふまえ100首には相互の関連性があるのではないかという研究がある。ジグゾーパズルのように並べ替えていくと藤原定家の隠れた意図が浮かんでくる。

【百人一首の隠れた意図】

まず百人一首のキーパーソン達の歌を見ておこう。

  藤原定家・・97番首「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」

後鳥羽院・・99番首「人をもし人も恨めしあじきなく世を思うゆえに物思う身は」

  順徳院・・100番首「ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほあまりある昔なりけり」

  式子内親王・・89番首「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶことの弱りもぞする」

式子内親王は順徳院の猶子に予定されていた大変な美女であったが若くして病没実現しなかった。藤原定家も恋心を抱いていたようで彼の「明月記」にもその様子や気持ちがしばしば描かれている。後鳥羽院は隠岐島から復帰をはかったが果たすことが出きず、その地で悶死したがその際に次のようなものを残している。

「我は法華経に導き参らせて、生死をばいかにも出んずる也。ただし百千に一、この世の妄念にかかはられて、魔縁ともなりたることあらば、この世のため障りなすことあらんすらん。千万に一我が子孫世をとることあらば、我がちからと思うべし」

すなわち怨念の魔王になって祟りをすると宣言している。当時の社会は「たたり」を大変恐れた時代であった。事実、後鳥羽院の憤死後、定家の周辺では数人の急死者が出ている。定家にとっては自分を抜擢した大恩人を裏切って体制側について昇進しているうしろめたさと「たたり」に対する大きな恐怖感があったに違いない。体制側にいる現状の中で反体制側の首謀者である後鳥羽院をあからさまに鎮魂するわけにもいかず、暗にその意図を伝えるものを作って鎮魂・哀悼の意を表さざるを得なかった。公式公開用の「百人秀歌」には後鳥羽院・順徳院の歌は入っていない。

これをふまえて定家の歌を見ると、表面は恋人を待ちこがれる恋歌であるが、「待つ人」とは後鳥羽院と式子内親王を指しているのではないだろうか。後鳥羽院とは音信不通の状態でなにもできずじりじりしていた気持ちがにじみ出ている。式子内親王とは不毛の恋でどうにもならないという絶望感が隠されているのではないだろうか。

シンメトリー的には後鳥羽院が白菊・紅葉で象徴されるのに対して、式子内親王は桜・梅で象徴されている。

このように「百人一首」は全体的構造が語句によって相互関連しており、関連の仕方は同意的関連と反同意的関連があり、全歌は縦横に連鎖して10×10の升目に配置できる。これをマトリックスにすると右下の角には定家、左下の角には後鳥羽院、右上の角には順徳院、左上の角には式子内親王が配置され、100首の歌が相互に関連した配列ができあがる。このようなものを作り上げるため藤原定家は古今の和歌の中から、優れた歌才とコンピュータのような頭脳を駆使し、かつシンメトリックなバランスを完全にとるように腐心したに相違ない。

【まとめ】

このように見ると「百人一首」は単なる歌集ではなく、もちろん歌合わせなどの遊びのために作られたものでもない。まさに藤原定家を取り巻く時代背景や環境を反映して後鳥羽院を鎮魂するために作られたと思われる。 特に100首の中で紅葉(流人)・船出(島流し)・風(隠岐島からの恨みの風)などの語句が後鳥羽院を象徴し、物思うという語句が定家が後鳥羽院を意識した歌である。

以上のように、私は全く気づかなかった「百人一首」の意味が1冊の書籍のおかげで知ることができた。一つの仮説にすぎないとしても歴史的事象には見方を変えると色々なものが隠されている可能性があることを思い知らされた。さらに詳しく知りたい方は

織田正吉 集英社 「絢爛たる暗号」

筑摩書房「謎の歌集」 

林 直道 青木書店「百人一首の世界」

青木書店「百人一首の秘密」

などをお読み下さい。







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