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  731部隊証言記録    証言者 元731部隊少年隊 篠塚良雄

・はじめに
 ただいま、紹介に預かりました篠塚でございます。
 今年は、病原性大腸菌という細菌の流行で、この細菌が、どのように出てきたのか、はっきりしていないようですけれども、日本ではこの予防に、一生懸命にやってきたという状況であろうと思います。
 かつての、侵略戦争の中では、日本軍は細菌を兵器として使ったわけであります。病原性大腸菌よりも、もっと殺傷力のある細菌を製造し、それをばらまき、中国の人々を塗炭の苦しみに陥れ、また殺傷してきた事実があります。もちろん、この犯罪の全貌については、下級隊員でありました私には、到底わかりません。ただ今から証言することは、私の行ったこと、見たこと、聞いたことを含めて証言させていただきます。よろしくお願い申し上げます。

・731部隊入隊・軍医学校防疫研究室での生活
 私は、1939(昭和14)年に試験を受けて731部隊に入隊しました。
私と一緒に入った者は、ほとんどが千葉県の者でした。試験を受けた当時、私は試験は通らないだろうと思いました。そのようなことから、親にも相談せず、友達の勧めに従って受けたわけであります。たしか、千葉県の県庁で試験を受けたわけでありますが、試験を受けたほとんどの者が合格したと思います。これが3月でした。
 4月1日に、軍医学校防疫研究室に来いという指示を受けました。この軍医学校防疫研究室というのは、当時牛込区戸山町にありました。今の新宿区で、国立予防研究所のあるところであります。この場所からは、もう4年になろうと思いますが、多くの人骨が出てきました。これは鑑定の結果、日本人のものではない、多くがアジア系の人の骨であるということがわかっております。国は、年数がたっているのだから、焼却処分にするということでありましたけれども、新宿区に住む人々、また多くの良心的な日本人によって消却差し止めの裁判が行われました。現在継続中であります。
 この近くの場所が防疫研究室であります。ここに集合しろと言われたわけであります。この入り口というのは、当時は済生会病院・陸軍病院・軍医学校共通で、通用門も一つでありました。私たち下っ端の、入りたての者は、当然通用門からぞろぞろ入っていきました。一番最初に到達するのが防疫研究室でありました。そこには、軍医学校とは別の守衛がいて、私たち初めての者は、中に入らせてもらえませんでした。中から人が来て、やっと入ったところが防疫研究室という名前の建物でしたが、非常に大きな建物でした。講堂もあるし、食堂もあるし、研究室は鉄筋で作られていて、頑丈なものでした。
 この責任者は、石井部隊長といって、当時は石井部隊と言われていた部隊の部隊長でした。同時にこの部隊長は、軍医学校の教官であるとも聞きました。
私たちは、ここで若干の教育を受けることになりました。
 細菌学の基礎的な培地作りを習ったり、教わったりの日課でした。また、衛生濾水機という、石井部隊長が開発したという濾水機の検定を行っているところを見るという生活でした。
 ここで、部隊長に初めて会ったわけですが、当時大佐でした。一見、当時の軍人らしからぬ者だという印象を受けました。私たちに対して、一番先に言った言葉は「この中に顔色の悪のがいる。寄生虫の検査をすると同時に、徹底的な身体検査をしろ」とついてきた副官に言いました。また、「お前たち少年隊員だと、勉強すれば上の学校にも入れてやる。大学にも入れるだろう」とこの様なことを申します。また、「ハルピンはいいところだ、行く時期については後から指示する。とにかく東京見物をして、うまい物を食べていろ」と初対面では、概略この様な話をしました。私と言った方が正確かもしれませんが、この人が極悪非道な細菌戦を指揮し、行い、多くの人々を殺傷する人だと、こういう印象は毛頭受けませんでした。これが軍医学校防疫研究室におったことがらです。

・731部隊本部(ハルピン郊外・平房)での教育
 1939(昭和14)年5月12日、私たちはハルピンに行きました。当時、
日本から4日くらいかかったと記憶しております。ハルピンに着きますと、私
たちはすぐ、吉林街分室というところに連れて行かれました。これは、ハルピ
ンの吉林街にありましたので、そのように言っていました。吉林街というのは
ロシア風の建物が多いところですけれども、その中でもひときわ頑丈そうな建
物でありました。この吉林街分室は後で、私たちが何回も出入りする場所にな
ったわけですが、まず、そこに行きました。それから部隊のバスに乗せられま
して、平房に行きました。ハルピンから25kmくらい先にありますが、まず香
坊を過ぎますと、当時は軍用道路でした。まっしぐらに走って、右にそれると
着いた所が、いわゆる石井部隊、731部隊でありました。
 そこで一番先に目に入ったのは、「関東軍司令官の許可なき者は、何人と言
えども立ち入りを禁ず」という立て看板でした。それ以外に、部隊を表示する
ものは、何もありませんでした。まわりには壕が掘られて、鉄条網を張り巡ら
せて、夜になると電流を流すと、まずこんなことを言われました。
 当時私たちが入った時は、あの模型にありますような建物全部はできており
ませんでした。ロの形の建物の中心にして、一棟・二棟と若干の資材倉庫があ
る程度でした。この様な状態ですから、当然私たちが行って寝るような所はあ
りません。このようなことから、第一番の建物の左側であったと思いますけれ
ども、そこに、兵隊用語で言いますと、内務班を作って生活するようになりま
した。これが最初の日に着いた状況であります。
 次の日から、教育が始まりました。最初に受けたのは配属憲兵による教育で
した。その内容を概略的に申しますと、軍機保護法というのが最初でした。軍
の機密を保護するための法律ですが、その中で聞いたことは、ここは特別軍事
地域に指定されている場所で、日本軍の飛行機であっても、この上空を飛ぶこ
とはできないと言うことでした。「見るな・聞くな・言うな」が、この部隊の
鉄則なんだということでした。軍機保護法については、くどくどと説明を受け
ましたが、今内容についてはっきり覚えているのは、以上の事柄であります。
 次は陸軍刑法でした。これもかいつまんで申し上げますと「ここから逃げ出
せば、敵前逃亡と同じように処刑されるぞ」ということでありました。当時の
軍隊では、戦闘時に逃げ出すことが一番罪の大きいことであったと思います。
即座に処刑されても文句は言えない状況にあったと思いますが、その敵前逃亡
と同じだと聞いて、私は、「部隊長が軍医なのにどんな秘密があるんだろうか。
何でこれほど警備を厳重にしたり、秘密を守るということが必要なんだろうか」
と疑問に思いました。しかし、当時の私たちの心の中にありましたものは、秘
密があればあるほど、何かしらやり甲斐のある仕事が待っているのではないか
と、こういう幻想を持ったことは否定できません。このような幻想から後に証
言します、いろいろな事柄に関わりをもってきたわけであります。
 次に、防疫給水の業務について教育を受けました。731部隊、当時の石井
部隊ですが、通称部隊名は石井部隊、731部隊で、敗戦当時は二千いくらか
の部隊名になったようですが、固有部隊名は、一貫して「関東軍防疫給水部」
でありました。防疫給水についての教育を受けました。教育を受けた場所は平
房ではなく、通称、南棟と言っておりましたハルピンの市街地に近い場所です。
この中で、部隊の任務だというのを覚えておけ、ということで教わりまして、
今でも覚えておりますのは、「防疫給水部隊は、第一線部隊に跟随し、主とし
て浄水を補給し直接戦力の保持増進を図り、併せて防疫給水を実施するを任務
とする」というもので、これが部隊の任務だと言い渡されました。
 その中には、防疫斥候・毒物検知・水質検査・疫学調査、それと浄水衛生濾
水機、これは甲乙丙丁とかの形の上からの区別と、車載用、駄載用、携帯用と
か区別がありましたが、これらの防疫給水の教育は、比較的長く受けました。
この中で、石井式衛生濾水機は、ミクロコックスといわれる細菌の中でも一番
小さいものでも通さない濾過管が使われておりました。この濾過管は珪藻土と
澱粉を混ぜて焼いたもので、性能がいいのだとか、ポンプも二段式バランスタ
ービンポンプという超近代的なものが使われているとか、また、毒物検知につ
いては、石井勝矢式毒物検知機が、速算できるものを使っているんだぞと、ま
あ、自慢げな話も多く聞いたわけであります。
 しかし、固有部隊名で示す防疫給水の業務、これは、平房にはありませんで
した。冒頭で申し上げましたように、これは、ハルピンの市街地で行われたわ
けであります。部隊の任務だと言われていること柄は、平房にはないわけであ
ります。これは、いわば防疫給水ということを表看板にして、実際は、平房で
行う細菌戦、これらにあったことは否定できない事実であります。

・細菌培養の仕事
 私たちは少年隊として教育を受ける段階でしたが、ほとんどが使役要員とい
うことでもありました。忙しいところに手伝いに行くという日常です。私たち
が行って間もなく、ノモンハン事件が始まっておりました。最初に使役として、
私が行けと言われたところは山口班というところでした。これは細菌弾の実験
・製造を行っているところでありますが、今でもそれが何に使われたか、はっ
きり分からないわけですけれども、これ(20kg)くらいの鉄片であります。
鉄筋の一部分を切ったような形のものでありますが、そこの所に溝がつけられ
てありました。そこに錆止めを塗る仕事でありました。最初の仕事がこれであ
りました。錆止めを塗るということは、細菌を付着させるには、細菌にとって
一番弱いとされる錆を止めておき、そこへ細菌を張り付けるなり、混ぜ合わせ
るなどして、細菌弾の製造をするわけであります。それは、2、3日で終わり
ました。何千個か作ったと思いますが、それは、どこでどのように使われたか、
現在も私には分かりません。
 次に使役で行ったのが、病原菌の大量生産であります。その時は、7月も半
ば、あるいは8月に入っていたかもわかりません。そこに行けと言われました。
そことは模型にありますロの形をした建物の一階部分であります。ここは、細
菌製造工場になっておりました。大きな高圧滅菌機がありますし、培地を溶解
する溶解釜、冷却する冷却所、蒸留水を作る場所、細菌を培養したり、かき取
ったりする総ガラス製の大きな無菌室、これらを備えておりました。私が命じ
られて、その中で行ったことは、各研究室へ行って、各研究室というのは主任
研究員の名前をとって、何班何班となっていたわけですが、この班によって研
究している細菌、または細菌戦に使う物が異なるわけですけれども、私はそこ
へ行って、細菌のもとになる菌株を運ぶことでありました。一かごに60本の
試験管が入っておりました。私の記憶では、一日に5回、300本は運んだと
記憶しております。この菌株によって、無菌室で培養されるというわけです。
この無菌室で使っていたものは、石井式培養缶と言われるものでした。この培
養缶は錆びない、軽い金属だといわれておりました。普通、細菌を培養するの
は、ワクチンを作るため、または、細菌戦以外にはないと思いますけれども、
当時でもワクチンを作る場合は、亀の子シャーレというのを使いました。首が
長いので無菌的な操作ができるとか、雑菌が入らないという意味合いから、こ
の亀の子シャーレが多く使われるわけでありますが、この石井式培養缶は亀の
子シャーレの30〜40倍の培養能力がありました。菌の種類によっても異な
りますけれども、10グラム単位の細菌が、一つの缶でできるわけであります。
300缶、私は菌株としてスタムと言っておりますが、運んだ記憶があります。
一回の製造量は300缶であったと思います。10g×300これが、30時
間くらいでできる細菌の量でありました。
 どのような細菌を作ったかを、研究室に行った場所等から考えて、パラチフ
ス、赤痢、チフス菌、これらであったように記憶しております。
 このようにして作られた細菌が、どう使われたかというとこでありますが、
私は実際にはっきり知っていること柄ではありません。かき取った細菌はペプ
トンの空ビンに入っておりました。一ビンは500g入りです。広口と言って
口が広いものであります。この中にかき取ってありました。これに一杯細菌が
あれば、概ね500g以上であります。はっきりした量は計ってなかったよう
に思います。これを無菌室に運びまして、当時からメジウムと言っておりまし
たけれども、ペプトンと肉エキスと食塩、それとPH値を適正に測定した水を
混ぜて薄め、そこにグリセリンを入れました。グリセリンを入れたのは、酸化
防止のためだろうと思います。これを石油缶2缶に入れました。それを密封し、
回りをドライアイスで囲って木の箱に入れ、さらに薦でくるむわけです。それ
を私たちが交代で運ぶわけです。
 なぜ、私たちがその運搬を命ぜられたのか、いまだにわからないわけですけ
れども、下士官に引率されまして、私たち少年隊が交代で、当時ノモンハンの
前線基地でありました将軍廟まで運びました。ハイラルまでは汽車でありまし
た。私たちが、デッキで石油缶2缶が入った箱を番をしたのであります。デッ
キは風通しもいいと言うこともあったし、私たちみたいな年少な者がおれば、
そんな極悪なものを運んでいるという印象を与えないためであったかもわかり
ませんけれども、その運搬を命ぜられて、そのようなことをしたわけでありま
す。
 この細菌が何に使われたのか。その先は、はっきり言ってよくわからないわ
けであります。しかし、当時防疫給水部としてノモンハンには、このように大
量の病原菌を生産する人、または若干の警備の人間を残して、ほとんどが出向
いておりました。このように水を濾して、前線の兵隊に飲ませるためであった
と思います。しかし、その裏で何があったか。いわゆる碇挺身隊という決死隊
を組織してありました。私と一緒に入った者二人が車の運転ができると言うこ
とで、この挺身隊に加わったのでありますが、これらの者が帰ってきて、コソ
コソ話の中から聞いた話でありますけれども、この石油缶はハルハ河上流のホ
ルスティン河に、穴を開けてぶち込んだと、こんな話をしておりました。これ
は事実であると思います。その他に使い道のない細菌であることは事実であり
ます。
 ノモンハン事件については、次の年であったと思います。が、ノモンハン事
件の論功行賞、いわゆる勲章の授与がありました。この時、私は一回そこに行
ったということで、従軍徽章の授与がありました。この挺身隊に加わった者に、
主として従軍徽章でありましたけれども、金鵄勲章が与えられております。金
鵄勲章とうのは、当時、人殺しを一番多くやった者に与えられる最高の勲章で
あります。当時ですから、なぜ金鵄勲章なのかと、内部では話がありました。
今思えば、理解できる面もあります。
 ノモンハンについては、9月末になって、日本軍が引き上げてくる頃に多く
の患者がでました。私たちは、その便の検査に動員されました。ほとんどの隊
員がこの検査に動員されました。保菌者を見つけて隔離するという仕事があり
ました。日本軍が、感染したようであります。このように日本軍が感染しなが
らも、勲章が与えられると言うことは、非常に不思議な事柄であります。
 今思えば、日本軍が感染してもです、細菌兵器として使用できると、これを
実証したのが、ノモンハン事件ではなかったかと、このように思います。これ
以外には考えようがないわけであります。
 また、これと同じように、あの部隊長の写真を見るとわかると思いますが、
陸軍最高技術優行章、日本でも何人もいないという技術優行章が与えられてお
ります。この細菌戦そのものが、日本の侵略戦争の主要なものになる状況が、
この時から作られたものではないかとも思います。これが、ノモンハンの時の
事柄であります。

・ノミの増殖
 次の年、昭和で言うと15年であります。春であったと記憶しております。
ノミの増殖、これに使役として動員されました。後に、特設のノミを増殖する
場所ができたようですが、私たちが行ったのは、あの模型にあります、ロの形
をした建物の3階でありました。ここに暗室がありました。比較的広い部屋で
あります。そこに、木の棚がありました。ちょうど人が入って操作できるよう
な、そう高くない棚であります。そこに、石油缶が2段にわたって、ずらりと
並んでいました。それには殻の付いた小麦が入っておりました。今は、はっき
り覚えておりませんが、その棚は20mくらいであったと思います。ここに小
さなかごに入ったネズミが入れてあった。今でも、疑問に思っているのですが、
野ネズミについているノミそのものを増やそうとしたのではないかと、今でも
思っております。
 私たちに与えられたのは、一日に一回そこを見回って、死んだネズミがあれ
ばそれを取り出して、生きたネズミと取り替えるということでありました。非
常に暑い部屋でした。私は今でも、その臭いに、嫌悪感を持つ部屋であったと
思っております。湿度は70%以上であったと思います。室温は28℃であっ
たと言う者もいますが、私たちの体感では40℃以上であったと思います。非
常に暑かったと思います。ちょっと入って出てくると731部隊のドリンクと
言いましょうか、酒石酸と重曹と砂糖を水で溶いたものを飲んでは、また入る
ということを繰り返しました。
 そうこうしているうちに、秋も近くなって、ハルピンの秋は早いですから、
8月半ば過ぎだったと思いますが、今度はノミと籾を分ける仕事を命ぜられま
した。どのように行ったかと申しますと、同じ暗室でありますが、そこに棚が
ありまして、それは西洋風呂そのものであったと思いますが、大人が寝て入っ
ても、まだ余裕があるという風呂桶です。片側に穴があります。この穴の部分
には、ガラス製の比較的長い液量器が置いてありまして、片側から赤い電気が
つくようになっておりました。ネズミを他の缶に移して、ノミの混じったもの
をその浴槽の中にあけ、赤い電球をつけると、ノミは暗い方へ逃げる習性を持
っているので、暗い方へ逃げて穴から落ちるというのであったと思います。ノ
ミは30cmくらいの跳躍力しかないので、その浴槽から飛び跳ね、外に出る
ことはできなかったようであります。確かにノミは増えておりました。ノミを
何ccという単位で測ったように記憶しております。これで増やしたノミを何
に使ったかといいますと、中国の人たちの証言、731部隊の関係者の証言、
被害者の証言から、いわゆる、中国の民報でも報じられている寧波作戦に使わ
れたということが明らかになってきております。この当時は、黒ネズミではな
く、白ネズミを使ったと記憶していますが、ペストに一番感染性の強いネズミ
に、まず注射をして感染させます。この感染方法も、いわゆる大学の先生もた
くさんいたことですし、どのくらいの量を注射すれば一番早く感染させること
ができるのか、また、ネズミの体内に菌量を増やすことができるのかという実
験は済んでおったと思います。
 この感染ネズミと、先ほど分離したノミを混ぜ合わせて、飛行機から落とす
のです。ノミというのは冷えた動物の身体から逃げ出す習性を持っていること
から、飛行機から落ちたネズミから、他の動物に付着するか、人間に付くとい
うことになります。多くの中国人たち、寧波で被害を受けた人たちは、そうい
うものが降ってくると、何日かして高い熱がでて、みんなリンパ腺が腫れてき
て、死んでいったと話しております。
 私自身は、自分の行った行為がこのような犯罪行為であったことは、当時は
はっきりとは認識していませんでした。しかし、自分の行った行為の重大さ、
尊い命をどれだけ失わせたのか、慚愧にたえない気持ちでいっぱいになる次第
であります。
 昭和16(1941)年、関東軍特別演習というのがありました。兵力は中
国の東北部に集中しました。731部隊にもこれによって動きがありました。
私は当時、盲腸を手術して、直りが悪くて入院しておったのですが、この演習
以後、各地へ移動していった関東軍が、それぞれ別行動をとることになりまし
た。私と一緒に入った者たちは、これを境にしてほうぼうに散っていきました。
敗戦後、と言うより、つい最近ですが、私と一緒に入った仲間に聞きますと、
大連の衛生研究所に行った者や台湾に行った者や、シンガポールの731部隊
の支部に行った者などの証言があります。私は、そのようなことから、部隊に
残りまして、第4部第1課柄沢班に配属になりました。この班は、病原菌の大
量生産をするということを任務としておりました。第4部長というのは川島清
少将です。千葉県蓮沼村出身であります。班長の柄沢十三夫は、長野県の人で
ありましたけれども、ハバロフスク裁判以後、日本に帰る間際に自殺したと聞
いております。その班に私は配属になりました。これと同時に、化学兵器取扱
者を命ず、という命令を受けました。私は細菌を扱うのに、なぜ化学兵器だろ
うか、まさか毒ガスを扱わされるのではないかとも思いました。けれども73
1部隊では、細菌を取り扱う者のほとんどが化学兵器取扱者になっているわけ
であります。細菌を取り扱う者について、このような命令を受けました。
 当時、私の給料は、確か43円くらいでした。化学兵器手当は25円でした。
将校以上になると60円くらいですけれども、このような手当もつきました。
柄沢班では化学兵器取扱者として、大量の病原菌を生産するわけですけれども、
これは作戦命令があると行ったわけです。「関作命第何号」というものでした。
「関東軍作戦命令第何号」というのがあると作り出すわけであります。中では、
ロ号作戦とか、ホ号作戦とか、イロハ順であったのか、何なのか、この辺はよ
く分かりませんけれども、このようなことでありました。
 私たちが配属になってから、主として製造した細菌は、ペスト菌・コレラ菌
・脾脱疸菌・炭疸菌・馬鼻疽菌といったもので、これらの猛毒細菌の製造に躍
起になったわけであります。
 先ほども申し上げましたけれども、ノモンハン事件の時は、いわゆる腸内細
菌でありました。殺傷力はあっても、それほどではなかったのかも分かりませ
ん。しかし、この頃から猛毒細菌を作り始めました。いわば、人も殺すし、動
物も殺すという細菌であります。いわゆる皆殺し作戦の任務を負ったのが、7
31部隊であったと思います。そして、製造量も非常に多くなりました。また、
いわゆる芽胞菌といわれる菌、脾脱疸菌とか炭疸菌といったものですが、これ
は、三谷班といわれる所に送りました。遠方に送るには、先ほど申し上げまし
たノモンハンの時のように、生きたままの菌を薄めて石油缶に入れて運ぶとい
うわけにはいきません。そのようなことから乾燥菌にする、つまり冷凍乾燥で
すが、遠方に運んでいけるというわけです。そして、使うときにはメジウム液
を加えれば、生菌として活用できるというわけで、乾燥ワクチンの製造にも躍
起となったのであります。私が配属になって、まずこのようなことを頻々とし
て行いました。それ以外の時は、何をやっていたのかと申しますと、伝染病が
発生した場所へ行って、防疫隊を装って入っていきました。農安という所に多
くのペストが発生したわけでありますが、細菌の研究者の話によりますと、7
31部隊が行った行為なんだと、汚染地帯を作ったのは731部隊だ、という
話があります。当時、長春(新京)で発生したことがありますが、安全地帯と
言われていたのによく発生するわけであります。
 私たちが命ぜられてやった仕事は、発生した場所を歩いて、死んだネズミを
集めてきて、実験室に行って腹を裂いて、培地に塗りたくるということです。
帰るまでには純培養という形にして、部隊に持ち帰ることが、私たちに与えら
れた仕事でありました。
 次は、建設班というのが731部隊にありまして、これらの人が患者の発生
した家に火をつけ、一か所だけ開けておいたところから逃げ出してきたネズミ
を捕まえ、死ねば腹を裂いて培地に塗り、生きていれば部隊に持ち帰るという
仕事をしました。もちろん無断で火をつけたのであります。これが防疫なる仕
事の内容でした。持ち帰った菌株は、次の病原菌の大量生産をする種にしたわ
けであります。そのようなことを私も行っておりました。

・細菌戦のための生体実験
 次は、生体実験・生体解剖に関してであります。731部隊には、模型にも
ありますように、ロの形をした中に、二棟の建物がありました。2階建てであ
りました。これは、一棟から二棟へまっすぐな廊下でつながっておりました。
二棟から三棟に入って、三棟から突き当たったところに入口があります。この
中を特別班と言っておりました。この特別班の班員には、多くの千葉県の人が
おりました。その班長というのは、石井部隊長の兄貴であります。私の知って
いる範囲でも、多古とか加茂とか千代田村ですが、その近辺の人たちが多くお
りました。はじめは、この建物をつくるために入った人たちですが、この建物
が終わって、特別班として、そこで仕事をするようになったわけです。この棟
に突き当たったところは、頑丈な鉄格子が入っております。模型にありますよ
うに、周りは3階建ての建物であります。入ったら最後、二度と出られないと
いう場所であります。ここには日本の、主として憲兵隊であったと思いますが、
特務機関も関わりました。いわゆる反満抗日分子だとか、ソ連のスパイとか、
こういう罪名をつけまして、ここに送り込んできたわけです。
 侵略されれば、侵略に反抗するのが当然の行いであります。私たちは、その
人たちをマルタと言っておりました。まあ、ドイツ語では何とかの名前、実験
に供する何とかと言うのだそうですけれども、私たちは、木の丸太という感じ
でおりました。どれくらいの人がここで殺されたのか分かりません。多くの大
学とか医学関係の専門家、本来ならば人命を救うことに命を懸けるのが、医学
者の道であろうと思いますが、あそこに入って来た人たちは、人殺しをしてお
りました。
 一番多く、生体実験・生体解剖で殺害していった張本人は彼らであろうかと
思います。診療部であっても、例外ではありませんでした。診療部には看護婦
もおりました。しかし、良心に恥じることなしに、我々と同じように平然とこ
のようなことを行ったわけであります。
 具体的に私たちが、どのようなことを行ったかということを申し上げますと、
自分たちのつくった細菌が、どれだけの殺傷力を持っているか、これが目的で
ありました。そのために私が関わった、1942(昭和17)年でありますけ
れども、まず、5名の人を選びました。屈強な人たちを選びました。731部
隊が開発したというエンベローブワクチンや、これは非常に効くんだと言って、
よその国で使われているワクチンも併せて使いました。
 まず血液を採って、いわゆる抗体価なるもの調べて、これによって予防注射
をしてワクチンを接種する。そして、また抗体を調べる。これらを繰り返しま
す。最終的には、ペスト菌に感染させるという実験です。このことによって、
5人の人を殺害しました。中国にとって、かけがえのない人たちをこのような
方法で殺したわけであります。当時の私たちは、ワクチンに打ち勝った、自分
たちの作ったワクチンが細菌に打ち勝ったと祝杯をあげるわけであります。今
思えば、何と恥ずかしいと言うより、人間としてやってはならない事柄を平然
としてやっていた自分に、嫌気がさし、それ以上に自分に対する憎しみさえ湧
いてくる心境であります。
 解剖にしても、本当の生体解剖であります。細菌というは、生体が本当に死
んでしまえば、息をひきとってしまえば、雑菌が繁殖して、今までの事柄が無
になるというわけで、生体解剖するわけであります。
 解剖の方法としては、一人が聴診器を持ち、一人が解剖刀をかざします。あ
と三人くらいが待ちかまえています。聴診器を離した瞬間に解剖刀が腹に突き
刺さり、瞬く間に切り刻んでしまうのであります。当時、私の命ぜられたのは、
培養基と白金耳を持ち込みまして、白金耳を順々に焼いて、切り刻んだ中から
細菌を取り出すという仕事でありましたけれども、後で聞くと「これはタイミ
ングが難しいんだぞ」と言うことでした。「聴診器の離し方を間違えると、お
前たちが血を浴びてしまうのだぞ」ということも聞きました。
 先ほども申しましたように、自分たちが人殺し、残酷なことを平気でやりな
がら、自分たちが思ったとおりの実験ができたことに対して、祝杯をあげると
いうような人間どもでありました。私の犯罪行為についての概略を述べました
が、細かい犯罪行為となれば、たくさんあります。もちろん、この犯罪行為も
日本の侵略戦争の一つの部隊の任務を負って、いわば「殺しつくせ、奪いつく
せ、焼きつくせ」の作戦行為であったことは間違いありません。皆殺し作戦で
あります。

・中国の寛大な措置
 私は敗戦後、731部隊から離れまして、125師団におりました。師団の
軍営部と言う所で、通化におりました。これは鴨緑江に近いところであります
けれども、そこに軍医部長というのが、731部隊から来ておりました。彼は
8月13日には、逃げ出しました。私に残した言葉は、「ソ連の捕虜になるな」
と言うことでした。「朝鮮に向かっていけ」と。しかし、私は下級隊員であり
ます。命令がなければ動けません。そのようなことから、中国にずっと潜伏し
ました。それ以降、当然のことながら逮捕されました。永年から、撫順監獄所
に送られていたわけであります。
 その中で、多くのことを学ぶことができました。私たち自身、逃げまくって
いて、逮捕されたのですから、当然、直に処刑されると思いました。また、撫
順戦犯管理所に収容された1116名は、極悪非道な犯罪をやった集団であり
ますので、処刑されるだろうと思っていました。
 たしか、私たちが入った時は、米のご飯とか、今まで日本でも食べることが
できなかったものが、食事として出てきます。また、米のご飯だけでは病気に
なるといけないからと、パン工場まで作って、私たちに食べさせてくれました。
そこで働いていた管理所の所長さんはじめ、職員の人たちは、コーリャンとか、
粟とかを食べておったわけで、しかも二食です。私たちには三食を与えました。
私たちは、それに対してどう思ったか、「ああ、こんなにうまい物を食べさせ
るなら本当に処刑間近かなんだ」。このように浅はかにも思ったわけでありま
す。日本だって、自分たちが、そのようにやってきたわけであります。処刑す
る前くらいは、うまい物を食べさせろ、それが武士の情けだと。だから、私た
ちは中国の戦犯管理所でそのような待遇を与えられると、すぐそのように感じ
るわけです。
 そのようなことから、自暴自棄になる、言いたい放題のことをいう、やりた
い放題のことをやるというのが続きました。しかし、中国の戦犯管理所の所長
さん始め、職員の方々はじっと堪えておったわけです。それで、私たち自身が
変わると、また中国の人たちも変わってきたわけでありますけれども、その中
から、私などはいろんなことを学びました。バレーとかバスケット、日本の軍
隊の中ではやることのできなかったこれらのことも、覚えることができました
し、また多くの本を読む機会も与えられました。今まで分からなかった国際情
勢も分かるようになりました。また、日本の情勢も分かるように教えてもらい
ました。ラジオなどでも聴くことができました。文化・体育面でもいろんな指
導を受けました。
 このような中から、自分の行った行為が何であったのか、国のためだと思っ
たのが、実際、何であったのか、自分自身がどんなに愚かであったか、これら
のことも気がついたわけであります。まあ、帰国してからです。私たちは一人
も処刑された者はありませんでした。多くの、二千何百人という人間が処刑さ
れましたが、中国では一人として処刑されませんでした。多くの人間が、19
62(昭和37)年に釈放になったわけでありますけれども、昭和60年まで
には、全員が日本に帰ってまいりました。
 今、申し上げました事柄から、私たちの過去が何であったのかを考え、中国
帰還者連絡会という組織を作りました。反戦平和と日中友好、これらのことに
力ないながらも、何とかやってきております。私たちの仲間も、1116人お
りましたけれども、今は300人近くになってしまいました。後は、あの世に
逝ってしまいました。このような、ある面では、たわいもない話になったと思
いますけれども、一応証言を終わらせて頂きます。

司会
 どうもありがとうございました。本当につらいことをお伝えいただきまして、
本当にありがとうございます。ここで篠塚さんにご質問がありましたらどうか、
お手を挙げてください。

質問
 お分かりにならなかったら結構ですが、ミドリ十字の創業者が、731部隊
出身だということを聞いたことがあるのですが、どうなのですか。

篠塚
 このことについてですが、私は面識はありませんが、内藤良一という会長、
これは私が冒頭で申し上げました、陸軍防疫学校、防疫研究室の責任者であっ
たことは間違いありません。

質問
 後ろの展示物の中に、マルタとして、捕らわれた人の中に小さな子どももい
たと、それと女性の方もいたとあるわけですが、それにペスト菌だとか、人間
を殺す実験をしたとあるわけですが、特に女性の方には殆どの方に梅毒の感染
実験、梅毒の進行実験をしたと、いくつかの書物に書いてあるわけですが、そ
の辺り、篠塚さんに、実際にそんなことがあったのか、あるいはそんな所を見
たとか、お聞きしたいと思います。

篠塚
 特別班の中で、生体実験・生体解剖された人の中に、女の方がおられたかど
うかということですけれど、おりました。男性に比べれば、女性は少なかった
と思いますけれども、私たちが入って行って、最初に目にしたのは、金髪の女
性が子どもを抱いている姿でありました。なぜ、目についたかと申しますと、
あの模型を見ると分かると思いますが、ロ号棟の屋上に入りますと、中が見え
ます。部屋の中は見えませんけれども、ここに収容されておられる人は、当時
は実験動物と同じだったわけであります。天気がいいと、散歩とか日なたに出
すとかしておりました。このようなことから、女の方・子どもがおられたとい
うことも見ております。
 私たちは、実際に女の人の実験に加わったことはありませんけれども、見て
はおります。私が目撃した女の人、中国人でありましたけれども、まず、凍傷
実験で足の骨、足がなくなっていると同じになっていました。性病の実験も行
っていたわけでありますが、最終的に、これらの人を8月11日であったと言
われておりますけれども、ガスで殺害して、石油をかけて燃やして、全員殺害
し、松花江の橋の下に捨てたと言われております。400体くらいの人たちで
あったと言われております。
 昨年、私はハルピンに行きました。国際シンポジウムというのがありまして、
731部隊の犯罪の事実を、中国側・日本側から摘発するという運動でありま
すけれども、そこに捨てに行ったという者も出ております。あそこに入った人
たちは、全員殺害されたということであります。
 もうひとつは、これに関連しますけれども、731部隊に殺害された家族の
人たちは、今でも、その消息を追っているのであります。日本人が外国に行っ
て、自分の夫、兄弟の骨を探すと同じように、中国の人たちも、肉親の骨を求
めておるわけであります。これに対して、日本政府は何も対応しないわけであ
ります。日本人は各所に行って、方々を引っかき回しています。中国の人も言
っておりましたが、自分の肉親の骨を探すと言うことは、人間として当然のこ
とだけれど、それを思うならば、私たちのことも便宜を図ってほしいと言う言
葉も、多く出てきております。

司会
 どうもありがとうございました。本当につらい話ですが、私たちも、しっか
り胸に刻んで、あらためて平和のために、もっともっと勉強していきたいと思
います。本当にありがとうございました。









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