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禁無断転載 ◎大韓航空機撃墜事件について◎ 007便に生存者あり、ロシア強制収容所に抑留中、 マクナルド米国下院議員はモスクワのルビヤンカ刑務所に収監中。 此の報告書の著者はA・シフリンなる人物。住所はイスラエル国エルサレム市91235ラモン私書箱23678号。 A・シフリンの肩書はソ連刑務所・精神刑務所・強制労働収容所調査センターの理事。報告書の共著者の名前もE・シフリンとあり、肩書は事務局長になっている。二人は家族か兄弟なのだろう。 前書きにはこう書いてある。「以下は1983年樺太沖で撃 された太韓航空ボーイング747型機(007便)と、其の乗員乗客の不可解な消失に関するCIAの暗号文極秘報告書を分析したものである。」 二人の報告書を紹介するのは、米国のキリスト教団が発行元の機関新聞『ミッドナイト・メッセンジャー』紙。報告書掲載日は94年1・2月号となっている。 89年以降からこの事件の犠牲者(行方不明の乗客ら)について追跡調査を続けてきた彼等(調査センター)は、90年になってある確証を得たという。 その大韓航空機はソ連空軍機が発射した二発のミサイルで大破して海中に沈んだのではなくて、樺太に近いモネロン島付近の浅い海に軟着水させられた。 乗客(この中には米国下院議員ローレンス・P・マクドナルド氏も含まれる)と乗員はソ連軍沿岸警備隊の手で洋上に浮かぶ機体から連行された。 この情報はシフリンらのソ連の地下情報網から得たもので、事件のほぼ「完全な実態」を掴んだシフリンらは、米国上院議員のジェシー・ヘルムズに連絡、調査結果を伝えている。 ところがヘルムズ議員が反応してきたのは、90年11月、つまり6ヶ月もたってからだった。更にヘルムズ議員らは、情報の詳細を求めてくるものの、それを求めるまでに又1年を要した。シフリンは半ば呆れている。 91年5月にようやくヘルムズ議員がシフリンらを訪ねる。 議員側近の幹部3人も同行してきた。J・ルシエ博士、D・サリバン氏、V・フェディ氏。シフリンらはソ連から証人を呼び寄せ ヘルムズ議員らの質問に答えさせた。証人らが宣誓書にサインして供述した証言にヘルムズ議員は納得した。 大韓航空機007便は大破せず、乗客全員は無事生存している事を裏付ける「圧倒的」証拠が揃ったとヘルムズ議員らを認めた。 シフリンはこれらの調査結果を提供するかわりに、ソ連が乗客を誘拐同様に扱った事態を米国上院公開聴聞会で取り上げる事、並びに米国政府による徹底調査を実行するよう「依頼」した。ヘルムズ議員ら1行は、シフリンらの依頼に賛意を示したものの、実際にその依頼の結末を得るまでには再び相当な時間がかかった。 ヘルムズ議員らの返事は、絶えずまちまちで 「ただいま、大統領宛の特別報告書を作成中につき、今しばらく待って欲しい」とする返答ばかり。 91年6月、D・サリバン氏から、先般の証拠資料がCIAと国防省で正しい証拠として確認された旨の連絡がシフリンらに届いた。シフリンらはこの連絡ぶりに不信感を抱いている。シフリンらはヘルムズ議員らに対して証拠の全てを渡してはいなかったようで、その事が逆に全てを知る米国当局の不信感を生んだとする記述を報告書に書いている。そして、 我々がいずれ世間に暴露するのを米国当局は恐れたようだ。・・・ だから米国政府は我々の先手を打って、対抗措置を取るよう ソ連側と合意したのは間違いない。 とシフリンらは言う。 凄い話である。なぜなら、米国とソ連が実は裏側でしっかりと繋がっている構造をシフリン等は承知の上でクレームをつけているからだ。それに両大国も又手を取り合って民間人シフリンに「対抗」している様子が伺える。 ベラスコの言う「良心的な歴史観」の強さをシフリンらは当然のように心得ているのである。米ソ対決とか冷戦構造が実在したと本気で信じてきた人々には、気の毒なくらいのシフリンらの行動ぶりである。ベラスコやシフリンらは米ソ対決構図も「両建て主義のまやかし対決」として全く興味も幻想も抱いていない。 90年12月、シフリンらに追い込まれたソ連の政府機関新聞『イズベスチャ』紙が、まず単発記事(007便事件)を掲載した。事件記事の掲載を、シフリンは「極めて異常だ」という。というのは、その記事はソ連政府の失態を批判したもので、その内容は大韓航空機の領空侵犯を非難しながら、機体を海底に横たわっていて、乗客は全員死亡したと断定していながら、しかしその事実を世界に公表すべきだとソ連当局に提案しているからだ。イズベスチヤ紙は提案論拠を、あのカチンの森の大虐殺に関与した旧ソ連が後年になってポーランドに謝罪したその度量におき、だからこそソ連は過ちを素直に詫びる事の出来る大国だという論旨に、シフリン等は異様さを覚えたというわけだ。 ただし記事は、「無傷で海底に横たわっている機体」をいつのまにか「バラバラに大破した機体」にすり替えている、シフリンは怒る。 「ソ連は269名の乗客に死を宣告したまま、その家族に釈明さえしていない」と強く政府を非難するイズベスチャ紙は、91年から「事件」の本格的な連載を25回シリーズではじめた 記事は同紙独自の調査によるものとされ、その調査内容はシフリンが未入手の新事実も多数あった。むろん偽情報も混じっていたし、ソ連政府の公式見解を真っ向から否定する証言も含まれていた。 フライト・レコーダーがソ連側に回収されていたのは既に明らかだったにも関わらず、米国、韓国それに周辺国政府が、フライト・レコーダーを韓国に返還せよと抗議するわけでもない。せめて「最後の30秒間だけでも聞かせろ」などと注文をつける事もなかった、と関係西側諸国の不甲斐なさをなじっている。 シフリンらはソ連の態度を西側政府が知り尽くしているから返還要求を断念したのだろう、とたかをくくっているソ連の態度を許さない。シフリンらの地下調査網は調査を継続しながら、決定的な証拠を入手していった。例えば、乗客は救出された後強制収容所に連行された、KGBは米国の防衛事情を尋問する為にマクドナルド下院議員をモスクワのKGB中央刑務所(ルビヤンカ)に拘置した。などなどの情報が集まった。 シフリン等の堪忍袋の緒が切れた。91年になってもヘルムズ上院議員等は約束を果たさない。上院公開聴聞委員会の件も政府の対ソ交渉の約束も音無しのままだ。堪忍袋の緒が切れたシフリン等は公開を決断した。だが、シフリン等の行動は失敗する。 91年7月11日、エルサレムで記者会見を開いたシフリンらの元へ集まった記者は一人もいなかった。会見開始の一時間前に正体不明の何者かが会見中止を報道機関にふれまわった為だったことが、後に分かった。 即座に発表すると約束する記者らに資料を配布したが、全ては無駄だった。資料を掲載発表した報道機関はなかった。シフリンは、ある米国記者の例を非難している。それは女性記者ウェイマスの態度についてだが、彼女はヘルムズ議員の紹介で來たワシントン・ポスト紙の編集者。 この女性記者はシフリンらを三時間インタビューして資料を米国に持ち帰った。その取材目的は、 「なぜ米国政府が反応しないのか。その疑問を解く詳しい記事を書く為だ」と説明した。その後ポスト紙に何も書かれていないのはいうまでもない。 ○ソ連に一杯食わされたCIA 1992年秋、「世界の報道機関」に韓国の野党党首ソン・セ・イル氏の声明が配布された。氏はその声明で007便の乗客全員がソ連の強制収容所に収監されたとする強い証拠がある。と述べた。声明を報じた世界の多くの新聞社は、当事件を綴ったCIAの報告書のカバー写真を同時掲載して、声明の信憑性を裏付ける工夫をした。 シフリン等もソン・セ・イル氏から78頁にわたる報告書を入手、分析検討したうえで、次のような結論を下した。ソン氏が得ていた報告書は、イズベスチャ紙が調べた最初の部分と、シフリン等の調査資料でつくり上げたものだとわかった。つまりシフリン等が91年6月に作成してCIAに渡した直後の報告書であった。シフリン等が驚いたのは、事件直後の1983年9月の段階で、CIAは既に乗客全員が救出され、ソ連国内の収容所に送還されている事実を掴んでいたのを認めていた事だった。 驚きと憤慨が相半ばするシフリンらは追い打ちをかけられる。米国の新聞が国務省筋の談話として、「我々はシフリンよりエリツィンを信用する」と紹介したのだ。 シフリンらはCIA報告書をつぶさに検討した。一番知りたいのは1983年9月以降にCIAが掴んだものは何か、だった。特に重要な点は、米国政府がゴルバチョフとエリツィンを信用した(信用したよりも画策をした!忍)なんらかの証拠を突き止める事だとシフリンらは考えた。 @ CIAは事件発生と同時に日本列島の北海道北端の稚内にある陸上自衛隊レーダー基地が傍受した007便の交信記録を入手した。 同時にソ連のレーダー基地からも同様の交信記録を受け取っていた。両方の記録は共にKAL007便の攻撃された後の飛行経路を、少なくとも12分、つまり高度3万500フィートから機体がゆっくりと下降しながら0ポイントに至るまでを追跡記録していた。 A CIAはKAL007便の機長が、攻撃を受けた直後の3分間以内に「東京成田管制塔」と交わした最後の無線通信で一万フィートまで降下すると報告している事実を知っていた。 B CIAは、以上の15分間の平均降下速度が加速せず減速している事、つまりCIA報告にある「KAL007便は急降下若しくは墜落状態にあった」のではなくて、「機長がある程度制御した状態」にあったことを知っていた。 単純計算からでも、機体が攻撃にさらされた直後の5分間以内に、それまでの3万5千フィートから目標の1万6千4百フィートまで急降下した事、つまり平均秒速61.6フィートで降下したことがわかる。次の4分間の高度1万6400フィートから5000フィートまでの平均降下速度は秒速47.9フィートだった。そして最終的に(攻撃後、レーダーに捕捉追跡された12分間の内の)最後の3分間の平均降下速度は秒速22.2フィートだった。 以上のことから得られた結論は、機体が平均速度を減速して下降していた、と云う事だった。この結論は、機体が制御不能になって海面に激突したとする考えとは絶対に相いれない。航空学の専門家によれば、3万5千フィートからのボーイング747機の規定降下時間はおよそ15分、一方制御不能の機体が墜落する際は二分間を要さないという。 C CIAは、ソ連軍の攻撃機が「参照地点周回飛行」をしていた事実(交信)を傍受していた。その為、攻撃後4時間以内にソ連の捜索救助活動が実行され、米国人乗客が含まれる民間航空機を沈没させた事を攻撃機のパイロット等は承知していた。もしも民間機が不明地点で会場に墜落した場合、初期段階での救助活動はありえない。ソ連側は民間機の着水地点をあらかじめ知っていたからに他ならない。 報告書には当然、起こりうる疑問があげてある。ソ連戦闘機のパイロット等は米軍機RCー135だと信じていた「撃墜機」の乗客の国籍をどんな方法で確認したのか。この疑問に対する答は直ちに与えられている。 それは、ソ連救助艇は機体が破損した状態で海上に着水した民間機の救命ボートから乗客を救助する際に無線連絡を送っており、その緊急連絡をソ連戦闘機のパイロット等が傍受していたからだ、というのが答になっている。 D CIAはレーダー画面から民間機が消えると直ちにソ連軍司令官が墜落予想地点へ沿岸警備隊の救助艇8隻を派遣した事を知っていた。 E CIAは、当時のソ連最高会議議長のアンドロポフが何らかの理由により、KAL007便のアンカレッジ離陸以後の様子に特別な関心をもっていた事を知っていた。 F 日本人漁師等から得た目撃証言は、民間機が墜落せず軟着水した事を明らかにしている。 G CIAは事件の瞬間からソ連が大規模な偽装隠蔽工作に従事していた事を知っていた。ソ連が捜査活動をどこで実行しているのかも知っていた。 その一方でソ連は同時に墜落予想地点に関して偽りの座標を公式発表した。加えて”おとり”の「波動音発生装置」を墜落機の実際の水没地点から約1000キロメートル離れた公海海域の深海に設置して、米国と日本の捜査隊を欺いた。 H 機体と遺骸が不明な点をどう説明するのか。当時は比較対照になる航空機事故がなかったせいもあったが、1985年と87年には似たような事故があった。 両方とも太平洋上空でボーイング747型機を爆発して、乗員、乗客全員が死亡した。およそ1キロメートルの深海に残骸は沈んだものの、フライト・レコーダーは数日内に回収され、数え切れない数の荷物や機体破片や遺体も回収されている。 CIAがソ連側に騙されていた事に気付いたのは、1991年イズベスチヤ紙の記事が掲載された後だった、とシフリン等はいう。 ○「真相」をつくる人々 米国大統領が事件発生から20時間も過ぎてから知ったその異常さにCIAは注目している。生情報がワシントンに届いたのは、事件後4時間を経過していたという。しかもその第1報は取り消され、30分後に再発行された。 だがその再発行時には、元の生情報に細工が施されていた。 その細工は事件後の11日まで続けられていた。 シフリンらは、事件1ヶ月半後の「改変」に注目した。その改変が事件全体に重要な役割を果たしたと疑った。CIA報告書の指摘によれば、1983年9月3日に米国国家安全保障局(NSA)は「最終的」と題した報告書を纏めたものの、その報告書の内容は読むに耐えないものだという。 NSA報告書では、攻撃されて被弾4分後のKAL機の高度は500メートルだったと書かれていた。実際には5000メートルだから「0」がミスプリントされたといってもよい。だが、本当にその数字が正しいのならば、平均降下速度は制御不能状態下での墜落状態に近い。ところがもしもそうだとすれば、機体は最初の4分間に急速降下を行った後、更に8分間にわたって空中にあったとする確定事実に矛盾してしまう。なんおことはない、この「500メートル」は1ヶ月も後になって訂正される。CIAはその秘密報告書の中で「我々が証拠の重要性は無知だったのか、それともCIAが過ちの重大性に無頓着だったか、そのどちらかだった」とするくだりをシフリン等は紹介して CIAを無能機関呼ばわりしている。 更に「我々CIAは1983年9月にソ連が実行した欺瞞に関して強力な証拠をもっていたが、その偽装シナリオの重要性を見抜けなかった」と反省する記述をシフリンは紹介している。CIAはようやくソ連側の計略に気付くまでに一ヶ月を要した。CIAはソ連のレーダーを追跡する米軍の追跡レーダーと、日本の自衛隊稚内基地が備えた追跡レーダーのデータを分析して、正確な地理座標を求めている。更に米軍は、偵察衛星画像も偵察機の画像も遠隔水中ソナーなども一切活用しなかったとCIAは述べている。 米国務省は、事件に関する手出しを一切禁じた。CIAがした事は「国務省が何もするな」と命じた事を報告書にそう書くことだけだった。あらゆる秘密情報を活用出来る筈のシュルツ国務長官は、一言「KAL機搭乗者は全員死亡した」と述べるに留めていた。その言葉を覆す証拠事実の山の中にシュルツは埋もれていたのに、とシフリンは悔しがる。CIA報告書は、ソ連に完全にしてやられた米国情報部の大ミスを報告書の中で認めていた。 シフリン等は、92年夏のCIA報告書(非公開)でようやく認めたシフリン等の調査結果よりも、国務省がソ連を信用してきた不思議な態度に首をひねる。シフリン等は、米国国務省の態度から、CIAがこれまで収集してきたソ連の欺瞞や虚偽を、米国の高レベルの人々が悉く握りつぶしてきた事を訴えている。シフリン等は、CIA報告書の文面をそのまま次のように紹介している。 米国情報部がソ連のKAL007に対する欺瞞についての情報部自身の証拠を考慮乃至は理解する事に失敗した理由は、米国情報部が1969年〜83年までの時期を通じて軍備縮小条約に関するソ連の欺瞞と違反について増大する一方の証拠を徹底的に報告分析することを一貫して拒絶してきたからである。米国情報部とりわけCIA内部には、軍縮に関するソ連の欺瞞と批判の証拠及び分析を「差し控え」たり禁止したりする特有の風潮があった。1970年代と83年までの時期を通じて米国情報部の内部には、ソ連は重大な事柄について大掛かりな欺瞞工作など出来ないし、軍縮条約の交渉でも確かに欺いたり隠したりしていない、とする考え方が支配的だったのである。 CIAの「事なかれ主義のサラリーマン根性」が頑だとシフリン等は嘆く。 解雇を恐れて真実追求を捨てるとは何事かと罵り、天を仰ぐ。CIA自身が報告書の中で自己批判しているようでは処置無しなのだろう。 ソ連の欺瞞を認めようとしないCIA自身の偏向と近視眼性が原因で、CIAは独自で集めた証拠の重要性を理解出来なかった。こんな調子でCIAが「自己批判」しているのだから仕末が悪い、とシフリン等を嘆く。 ○ゴルバチョフの沈黙、シュルツの命令 CIA報告書がミハイル・ゴルバチョフの沈黙を指摘している点にもシフリン等は言及している。事件発生の1983年9月に共産党政治局員として将来を嘱望されて登場したゴルバチョフが、政治局会議の場でこの事件の全てを知り尽くしていながら、沈黙を決め込んで、今日に至るのを許すべきではないというのだ。 ユーリー・アンドロポフが最高指導者に仕立て上げようとしていた傑物ゴルバチョフは、ソ連指導部の最有力幹部として大韓航空機事件に対してなすべき事をなにもしていない。シフリン等は、自分達の調査結論をCIAの調査結果と比較検討した結果、CIAから完全に指示された出来映えだと、自らの調査結論に自信満々である。証拠の詳細が次々と紹介されていった。 @ ソ連潜水夫は、無傷のボーイング747機体内部からボイス・レコーダーを二基回収した。機内には遺体、荷物はなかったと証言した[国家特別秘密委員会(委員長V・バレインコフ将軍)発行の秘密報告書の一部から]。更にこの情報はイズベスチャ紙とCIA報告書が掲載した。 A ボイス・レコーダー回収船に同乗した国家調査委員会複数の証言。ルベルツィのERAT研究所で設計された特殊ゴム袋(大韓航空機の沈没現場でボイス・レコーダーを海水と一緒に回収した装置)に関する詳細な情報。ボイス・レコーダーから回収されたテープの解読作業に当たったルベルツィの専門家等の名前(CIA報告書も確認している)。 B ボイス・レコーダーの一基に「ハミルトン補聴器」の商標があり、それをボーイング社に照会確認した。 C 事件当日の現場目撃談話をネブェルスク(樺太)の漁師、日本人漁師等から直接入手した。「着水した機体から乗客が救助された」とする漁師等の談話(第1次情報源)は、リイズコブ隊長(本土側のザブイエトリイリィチャ村にあるレーダー基地にあるソ連防空隊将校)、及びオルガコフ元帥とウァレンコフ将軍の側近数名の目撃証言(漁師から聞いた第二次情報源に相当する)。これらの証言をCIAは完全無比の正確さ、を認めた。 D 浮上(浮遊)中の機体を撮影した写真がある。ソ連の飛行機から撮影されたものとされている。CIAはその写真が航空機でなくヘリコブターから撮影したもので、747機体をもっと深い海底に沈める為に曳航する過程を撮影したとしている。 E 乗客乗員はソ連の特別秘密収容所に送られ、子供らのみ孤児院に送られた模様。それらを指揮したのはロマネンコ将軍。将軍はこの業績で駐東ベルリンソ連大使館付き陸軍武官に栄転、その他ではからずも「自殺」。死亡事実は、ソ連の新聞コムソモルスカヤ・プラウダが確認した。 正義の追跡調査団シフリン等は、繰り返しソ連の欺瞞工作を指摘する一方で、シフリン等の調査結果がCIAの調査結果と一致している事実を訴えている。加えて、CIA報告書にある「生存可能者の帰還の為の外交努力の必要がある」と説く点を支持しつづけている。その反面で、CIAが無視している事実をも合わせて指摘する。その事実とはーー @ C・K・スノウ氏(大韓航空アメリカ地区事務所所長・在ロサンゼルス)が、事故の数時間後にかける電話は、マクドナルド下院議員の広報担当官トミー・トーレス氏宛で、「今、ソウルの大韓航空本社から連絡があり、それによると在韓米国大 使館より、韓国政府、外務大臣等に対して大韓機が樺太に着陸したというものだ」と知らせている。 トミー・トーレス氏は更に別な知らせをアルブィル・ウィルヘルム氏から今届いた知らせによれば、日本政府の航空交通部民間航空課のタカノ(高野?)氏から次のように知らされたと前置きし、日本の航空自衛隊は北海道の基地レーダーによって大韓航空機のソ連領樺太への着陸を追跡した事を確認している、と。その便の名簿でマクドナルド下院議員の搭乗が確認されている、と。 A 大韓機007便のチェン・ブェ・イン機長は洋上に着水して90分後に日本の成田空港に無線連絡を行って、不時着の事実を確認した。 B 米国太平洋艦隊の救助船は、大韓機の緊急事態をキャッチして、墜落予想地点に向かったが、その数時間後にシュルツ国務長官からの命令で救助活動を断念して帰 還させられた。中止命令は全く意味不明の理由によるものだった。 C 007便の航空路逸脱理由の調査をはじめたアンカレッジのジェイムス・ミケランジェロ氏の活動を米国国務省は中止させた。その理由は、調査は国務省の管轄にあるとするものだったが、その後になっても国務省が調査した形跡は全く無い。 D 事故直後、樺太のソ連軍ラジオ局は大韓機が機内に用意した乗客の為の音楽テープと同じテープを放送した(イズベスチャ紙)。 E ボイス・レコーダーを回収した潜水夫らは、機内の座席ベルトが締められていない事に不審を抱いていた。 F 乗客の所持品を整理した軍の将校を取材したイズベスチャ紙の記者は、軍人等の言葉「後で処理しなければならなかった物品は、全て国際線旅客機ならどの機も積んでいるようなガラクタばかりだった」、を聞かされた。 どうやら、KGBはマクドナルド議員の完全尋問を目論んでいて、議員を解放する意志が全くない。その為に他の乗客も解放するわけにはいかなかったのだ。シフリン等はそう結論づけている。 日本人が中心になって、神の言葉を、お伝えてこの問題を 解決する方向に考える必要があるのです。 神のいる場所 エルアール出版 〒150-0046 東京都渋谷区松1−○−9 サン○ルサビル○0○号 TEL 03-**53-1*70 |