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禁無断転載



匿名ですみませんが、声優系の以下の3つの記事を寄付したいと思います。
どれも、1996年頃のもののようです。


 邪悪の狂瀾(じゃあくのきょうらん)

定義

 実際の本人の生まれ年とは別に、虚偽の生まれ年をねつ造し
 そのウソの年を純粋なファンの人たちに信じ込ませてだますこと

本文
 1995年12月5日の各新聞に、オウム真理教の麻酔剤密造で薬事法違反に問われ
た森千太郎(40)、興梠(こおろぎ)智一(27)両被告が有罪判決を受けた、とい
う記事が載りました。

 このころ、私は某KSさんなる声優が、邪悪の狂瀾なのではないか?という考えをも
っていました。  生まれ年をでっちあげるという行為をやっている声優が少し存在する、
という話を聞いたことがあります。  私はこういう嘘にだまされたくない、ウソにおどら
されたくないと思い、経歴を調べてみることにしました。

 某KSさん
 1966年生まれ(自称)。某短大幼児教育科を卒業後、4年間保母をして、1989
年にデビュー。  あれ?短大卒で4年間?とすると最低でも24才。1966+24=1
990!?  実際にはこれに声優教育などの年数がくわわるので、より数値は大きくなる
はずだ。  さらにこのKSさんは、声優のTKさん(1962年生まれ)とクラスメイト
だったという。ということは4年も偽っていたのか。  この4年という数値は保母の期間
と一致するので、この期間を悪用して年齢を偽造しようとしたものと思われます。

 たとえ生まれ年をねつ造しても、デビューした作品の年は偽れない。ここに経歴のひず
みが生じます。  なんかこの「だます」という経歴詐称にあたる行為がいやです。  金正
日もサダム・フセインも自分を英雄化するために生まれを偽っているというし。  そこま
でしてファンをだまして楽しいんですか?  ・・・なんか悲しい。

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 反権威スキャンダルマガジン
噂の貧相・声優編     単なる宣伝雑誌ではわからない
   林原めぐみと久川綾に関する考察

(注・この記事は事実を含んだ推理である。決めつけてはいけない)         
「半端な東京者は声優をとっととやめて病院へ行けばいいんや。声優で失敗したら看護婦
になろうなんて甘すぎるで。逃げ道なんかつくるな。新人なのにいろいろ役をもらってい
ながら、一生懸命なあたいらに失礼ちゃう?」  大阪出身の久川綾は、看護学校と声優業
をかけもちした女性の存在を知ったとき、こういう意識があった。ここでの半端な東京者
とは、東京出身の林原めぐみのことである。

久川綾が青二プロダクション(事務所)に直結する青二塾(声優学校)の生徒の時代、林
原めぐみが所属した当時のアーツビジョン(事務所)はまだ歴史も浅く、あまり有名では
なかった。  久川綾の心の中には、伝統ある青二プロはアーツビジョンより上の声優事務
所という意識があった。それは慶応大学が東海大学よりも上の大学である、という意識と
似たようなものであろう。  また、久川綾は大阪出身で、ファンクラブ「VOICE T
O AYA」の住所を大阪府に置くぐらいの大阪人である。大阪人はもともと東京に対す
る対抗意識が強い。それらの意識も手伝って、久川綾の林原めぐみに対する印象はよくな
かった。

 それに、そのころ、林原めぐみはデビューからたった一年くらいで多くの役を演じてい
た。  ところで、当時も今も声優を目指す人は声優学校一筋に予習復習を含めて学習する
人がほとんどである。声優の世界は声優一筋にやっても成り上がるのは難しいといわれて
いる世界なので、看護学校にも通っておきながら、デビューしてすぐに大役を次々にこな
す林原めぐみが一部の人に特別視されるのは、しかたないといえた。  このような理由か
ら、あながち久川綾だけが林原めぐみを特別視していたわけではないのだ。また、声優と
いうのは身分が安定しにくい職業なので、他人から看護婦の資格が「逃げ道」に見えたと
しても何の不思議もなかった。  もちろん、林原めぐみには自分なりの考えがあったのだ
ろう。



 ここで、看護学校についてふれておくと、看護学校の学生はあまり暇ではない。病院実
習などもあり、そこいらの文系学部よりはよほど忙しいといえる。はっきり言って、看護
学校に通いながら声優学校に通って、声優として大成するのはとても困難だったと思われ
る。  また、「逃げ道」批判はあまり正確ではない。看護婦よりも楽な逃げ道の職業はほ
かにも多くあるからだ。  林原めぐみ本人は、まわりの目も十分承知していた。が、林原
めぐみは、もともと黙って言いなりになるような性格をしていなかった。


「批判するなんて、かけもちのあたしにすら声優として勝てる自信がないの?あたしは両
方がんばっていくつもりだけど、片方の声優業にすら全力をつくせない、ほんとうの半端
者なんかには絶対に負けない」 



 その後、林原めぐみは、自分の進路について迷ったものの、音響演出家の斯波重治に声
優業に専念するようにすすめられたせいもあり、声優界に生きることになった。そして、
声優業専門になってさらに林原めぐみは出世していった。林原めぐみはまた、アルバムの
売り上げも声優界最強といえるぐらいになった。やはり声優の才能があったし、並々なら
ぬ努力もあったのだ。  ろくに努力もせず、林原めぐみをねたんでいた連中はほとんど声
優世界から消え去ったであろう。林原めぐみは、ラジオ番組内で日高のり子や長谷川のび
太に「どの」をつけて呼ばれたこともあるぐらい声優界では大きな存在になったのだ。



 久川綾も努力と才能により、声優として成長した。特にセーラーマーキュリー水野亜美
の仕事をすることなどで大きく成長した。しかし、たしかにこの仕事は久川綾の名をあげ
たが、客観的に見て、林原めぐみにはまだ及ばなかった。  ところで、林原めぐみは、昔
の、十代のときに看護学校の受付のおばさんから受けた仕打ちを思い返して根に持つよう
な、「ただやられっぱなしではいない、いつか見返す」というような性格なのだ。だから
林原めぐみにしてみれば、久川綾のことは運よくセーラームーンの仕事だけで大きくなっ
たような中途半端の声優とうつり、いつか見返すということになってもおかしくはなかっ
た。


 この二人は「万能文化猫娘」で一緒に仕事をしたことがある。このとき、島津冴子もい
たのだが、林原めぐみは久川綾のことを「特上カルビの好きな遠慮を知らない女」と評し
たという話が残っている。



 久川綾の出演するセーラームーンに、三石琴乃という声優がいた。彼女も林原めぐみと
同じアーツビジョン出身で、林原めぐみに「琴乃」と呼ばれるぐらい林原めぐみと仲がよ
かった。

久川綾は1995年はじめに、アルバムを出そうと思っていた。そしてこのアルバム「H
i−Ka−Ri」の発売日を三月一日に設定した。  久川綾はこのことを、まずはじめに
まわりの仲間に語った。これでラジオの仲間であり、アーチストでもある「マグミ」にも
知れ、セーラームーンでの仲間である三石琴乃にも知れ渡った。  業界内では業界内の情
報が早く出回るが、林原めぐみが三石琴乃からこの話を知ったことは十分考えられる。そ
してこれを知ってか、林原は、自分のベストアルバム「Enfleurage」の発売日
を、まるで久川綾にぶつけるように、三月三日に置いたのだ。  そして、その林原のアル
バムの宣伝も強力なものがあった。


 発売日が近づくと、林原めぐみ自身のラジオ番組や、アニメ関係の雑誌で宣伝するのは
もちろん、オリコンの雑誌「The Ichiban」の裏1ページを使って宣伝したりした。また
、金曜日には多くのラジオ番組があるのだが、発売日直前に、自分のアルバムを「佐竹雅
昭の覇王塾」「ノン子とのび太のアニメスクランブル」「スーパーアニマガパラディ」と
いったラジオ番組に林原自身出演して宣伝したのだ。  さらに、林原が主役を演じていた
アニメ「ブルーシード」のテレビ内でも宣伝するといった熱の入れようであった。声優の
アルバムは数多くでているが、ここまで宣伝した声優はそう多くはないだろう。  久川は
自分のアルバム「Hi−Ka−Ri」の宣伝を、久川自身のラジオ番組やアニメ関係の雑
誌では、やっていた。



 こうして林原めぐみと久川綾は、1995年3月上旬にアルバムで戦うことになった。
他にもこの週には、チャゲ&飛鳥の飛鳥涼、中山美穂、GLAYといった面々が同時にア
ルバムを出し、「ブルーシード」のサウンドトラックアルバムも出たが、結局、オリコン
でのアルバム順位の結果は、  林原めぐみの「Enfleurage」が六万八千枚ぐら
いで六位、   久川綾の「Hi−Ka−Ri」が一万三千枚ぐらいで三十位 であった。こ
のアルバム戦争は林原めぐみの圧勝に終わった。



 話は変わるが、文化放送はアニメ系のラジオを多くやっている。しかし、土曜日の深夜2
5:30-26:00には、TBSラジオの「林原めぐみの東京ブギーナイト」が強力で、この時
間帯では、文化放送が苦戦を強いられていた。  文化放送はこの苦境に負けない番組づく
りをせまられていた。そこで、林原めぐみに対抗する声優として、なんと、久川綾を使う
ことを考えついたのだ。このことは、久川綾にしても、林原めぐみに対抗するチャンスで
あったろう。また、この番組改変に伴い、久川と一緒にラジオ番組をやっていた「マグミ
」はラジオを失業してしまった。  こうして1995年4月から、久川が乱入する形で、
毎週土曜深夜のラジオ戦争が始まった。これは、同じ東京をキー局とするTBSラジオ(
林原めぐみ)と文化放送(久川綾)の戦いでもあった。  文化放送の戦略はある程度当た
った。これによって「林原めぐみの東京ブギーナイト」をTBSラジオできかず、次の日
の日曜日23:30から東海ラジオできくという人が増え、結果的に文化放送にプラス、TB
Sラジオにマイナス、東海ラジオにプラスになったのだ。

 以上、二人の対立の経緯を述べたが、かといって、二人は文化放送のスタジオですれ違
ったとしてもいきなりなぐりかかるわけではなく、表面的にはこれらの対立がないように
ふるまうであろう。だがはたして、このような状況がある以上、二人の心の底に、対立の
意識は100%ないといいきれるだろうか?



編集後記

「メジャーの雑誌は広告をとるから全部御用ジャーナリズム。うちだけが本物」 と言った
のは噂の真相編集長・岡留安則氏であった。  岡留安則氏の報道姿勢には一定の評価がで
きるが、この言葉は声優界にも一部言えるのではないだろうか。どの声優雑誌を見ても、
賛美しか許さない「御用ジャーナリズム」体質が満ちている。都合の悪いことは一切書か
ない。やはりそこには、広告による遠慮が働いているのだ。  「噂の真相」のように反権
威・反権力を旗印に、言論の自由を最大に利用していくことで、賛美しか許さなれいよう
な安易な自主規制を攻撃することはやはり必要なのだ。  ここに書かれた情報がどの程度
正しいのか?それは、漫画家の小林よしのりが言う「噂の貧相」よりは正確かもしれない
。特に、客観的な事実(アルバムの発売やラジオの放送など)については、完全な事実で
ある。

だから、今回の件に関しては、二人に対立意識が存在しないと証明されない限り自主規制
はしない。しかし、これはあくまでも事実を元にした推理なので、決めつけはいかんとも
う一度言っておく。


                      噂の貧相 編集部




(注 その後、林原めぐみの東京ブギーナイトは、久川綾のシャイニーナイトに負けるような感じで、放送時間が変更になりました)





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笠原弘子はなぜ自分の名前を好まないか?
の、お話
(このお話はフィクションです。敬称略)

オウム真理教が世間を騒がせていた頃の
魔法騎士レイアースのアフレコ終了後、小杉十郎太は笠原弘子を呼び止めた。 小杉十郎太
「ねえ、笠原さん」
椎名へきる「え?え?」
笠原弘子「どうしたのへきるちゃん。呼ばれたのは私よ」 椎名へきる「あーなぁんだあ、
(アーナンダ?)あたし今ね、 「あさはらさん」て聞こえちゃった。あははははは」 笠原
弘子「は・・・は・・・・」(笠原弘子、ひきつった笑いを浮かべる) 椎名へきる「でも
ねでもね、ぜったいに「あさはら」と「かさはら」って似てるよね? かあーさーはーらー
ひろぉーこぉーって感じになってもおかしくないよねぇ?」 吉田古奈美「うーん、ちょっ
と似ているかもしれない」 笠原弘子「・・・・・・」(切れかかっている) 椎名へきる「
ねえ、ひろぉこぉ ひろぉこぉ ひろこひろこ ひろぉこぉう か あぁーさぁーはぁーらぁーひ
ろぉーこぉー って歌ったらいやですか?」 笠原弘子「あの・・やめてください」

後に、笠原弘子は、徳間書店インターメディア発行 バーチャル・アイドルVOL7 77ペ
ージ の下半分の「笠原弘子さんの「結婚」のお話」において 「私、自分の名前が好きじゃ
ないの」
と語っています。(これは完全なる事実)
もしかして、麻原彰晃に名前が似ている、というのが原因なのでしょうか? でも、「好き
じゃないの」の原因のうち、この要素が入っている可能性も 少しはあると思います。

この文章を書いているときに、椎名へきるの「少女爆弾」という歌を聴いていて、 「爆弾
発言でいきましょ」「問題発言もいきましょ」という歌詞に説得されて 椎名へきるが爆弾
発言役になってしまった。
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