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Subj: 措辞官詫需

 英清戦争とパリ列国会議
 1894年3月、朝鮮の開国以来、生活を極度に圧迫され、汚吏の搾取に苦しめられ続けていた朝鮮の庶民の怒りが遂に爆発し、『甲午農民戦争』(東学党の乱)が勃発した。これをきっかけに清国軍が朝鮮に上陸、これに対抗するために帝国軍も騒乱介入の名目で上陸した。ところが、既に農民軍との和約が成立しており(全州和約)朝鮮政府は両国の撤退を求めるが対清開戦をもくろむ帝国はこれを拒否した。しかし、朝鮮での戦争を望まない道国軍が牽制のために上陸するに及んで、三国とも同時撤退することとなった。
 7月、朝鮮で開化派と大院君によるクーデターが成功。大院君を執政、穏健開化派の金弘集を領議政(首相)とする開化派・大院君派連合政権が成立した(甲午改革)。
 開化派は清国からの独立を宣言、また『第二次朝北軍事同盟条約』の締結を発表した。この報を受けた清国は軍隊を朝鮮に派遣。英日北は清国を大いに非難した。日北の対清開戦は確実となったが、一方で大国と見られていた清国に日北のみで対抗する
にはやや不安があった。しかし事態が急速に進展するなかで英国は議会・世論工作をする時間が無く、英国の参戦はのぞめない状態であった。7月26日、清国艦隊が帝国兵を輸送していた英国船を豊島沖で撃沈するという事件が発生、29日英国議会は対清弾劾を決議した。同日、ソウル近郊で清国軍と朝鮮衛和軍(日本人遣外士部隊)が衝突。8月1日、英国は対清宣戦布告。2日、北海道国も対清宣戦布告をし義勇部の派遣を決定した。3日に帝国も対清宣戦布告し、ここに『英清戦争』(朝清戦争)が勃発した。
 戦いは、日英・道国義勇部隊の連合軍の圧倒的勝利におわった。勝因は帝国は挙国一致の戦争体制下にあり、かつ英国の全面的な援助があり、道国の義勇部隊の参戦もくわわったことで充分な戦力でのぞめたのにたいし、清国は国内の不統一に終始なやまされつづけ、効果的な軍事力の行使が困難であったことがあげられる。また、英国の参戦で国際情勢が清国に不利にはたらいたからでもある。
 1895年4月、北英日の3国と清国はソウル条約をむすんで講和し、清国は、(1) 朝鮮の独立をみとめ、(2) 遼東半島を英国に、(3) 台湾・膨湖列島を日本に割譲し、(4) 京奉鉄道と津海鉄道を英国に引き渡し、(5) 安錦鉄道と旅大鉄道の敷設/経営権を英日(8:2)にみとめ、さらに(6) 北海道国に*******両を支払うなどを約した。だが、このソウル条約の内容に不満を持った露・独・仏国が書簡を北英日3国に送り、ソウル条約で割譲される事になっていた遼島半島、膨湖列島の清国への返還を強く要求した。これに対し、英国はこの期に紛糾しつつある東アジア関係諸問題の解決を図るべく列国会議の開催を呼び掛けた。会議は仏国のパリでおこなわれ、「朝鮮」「台湾」の緩衝国化と事実上の「清国分割」が取り決められた。参加国は、英国、日本帝国、北海道国、朝鮮、清国、露国、仏国、独国である、この他に琉球王国の代表も日本帝国代表団に随行した。



 列強の清国分割
 20世紀をむかえるころ、世界史は帝国主義の段階に入った。欧米列強は資本主義の発展とともに生産物の販路を海外に広げ、資本を輸出して植民地獲得につとめたが、その犠牲になっていたのは、英清戦争でその弱体ぶりをさらけだした清国であった。
「パリ列国会議」で取り決められた通り、英国は阿片戦争で獲得した香港島をはじめ、朝鮮半島・満州にまでその影響力をのばし、北からせまる露国は威海衛に根拠をかまえ、独国は山東省の膠州湾を租借し、仏国も要地を租借して勢力をうえつけた。会議に不参加だった米国は領土こそうばわなかったが、門戸開放宣言を発して、清国への関心をしめした。
 清国民衆に排外運動がおこったのも当然であった。山東省におこった義和団は「扶清滅洋」をとなえて1902(明治35)年、北京の列国公使館をおそったのて、列国は連合軍をおくって鎮圧し(北清事変)、その結果、清国はさらに半植民地の状態に追いこまれてしまった。この事変をきっかけに露国は遼河以東の満州を占領、さらに朝鮮半島へ圧力をかけはじめた。英国はこれにたいし帝国と大韓帝国とのあいだに軍事同盟(英日韓極東三国同盟)をむすばせ露国の南下を牽制したが、露国の進出はいっこうにやまなかった。



 連邦前夜
 露国と大韓帝国そして大韓の同盟国である北英日の関係は、日に日に険悪なものになっていった。露国の進出は、いずれ北日両国をふくむ日本列島へとむかうことは北海道国そして日本帝国共通の認識であった。道国は、露国の極東派遣軍増強の気配を詳細に察知していた。1903年、道国は英国と米国を介し日本帝国とのあいだに修好条約をむすんだ。これは、日本帝国が事実上、北海道国を独立国家とみとめたということだった。1907(明治40)年8月、英露協商条約が結ばれ中東及び東南アジアでの英露間の緊張は、急速に緩和していった。これは、露国が極東地域へ再び目を向けるには充分な理由となった。1908(明治41)年4月10日、英国の仲介で北海道国と大日本帝国は『北日同盟協約』を締結した。これは、露国と極東において対立行動を行えなくなった英国が北海道国と日本帝国によって極東の英国利権の保護を代行させるものであった。
 1908年当時、北海道国は急速な鉄道網の開発によって膨大な外国負債を抱え込んでいおり、特に北樺太線の開発は困難を極め、予算を大幅に越える難工事となっていた。新聞は、政府の舵取りを非難、世論の『参政権行使運動』の高まりを助成した。
北樺太の開発・陸海軍軍備の増強・鉄道網の拡張という3つもの大計画を押し進めなければならなかった北海道国首脳陣は苦悩にあえいだ。『参政権行使運動』とともに当時『亜細亜連合論』という思想がおこった。これは、福沢諭吉の唱えた『東亜連合論』をさらに進め、「西欧列国(特に露国)の脅威をアジアから排除するためには、アジア全域の解放と自立が不可欠でありアジア全体が一丸とならなければならない。
その手始めとして、北海道国と日本が連合しその範を示す」というものであった。この思想の推進者であった河井義昭は「1本では支え切れぬ家屋もこれが2本3本ともなれば倒壊は免れる」という論説を発表した。『亜細亜連合論』が『北日連合論』に変化するのはたやすいことであった。情報の特にマスコミの力を予見していた河井は、新聞を使って、『亜細亜連合論』の民衆啓蒙に力を注いだ。1909年第4*回道国議会が開かれ、そこで河井義昭・渋沢栄一は『北海道国および日本帝国の概括的連合』を提案した。議会はその献策を採択し、交渉団の派遣を決定した。








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